小学校卒業の頃、友の死2005/09/06 20:52

今朝、「ああ、彼は死んでいたのだ」と思い出して夢から目が覚めた。
ちょっと冒険をしようという事で、彼と2人で、大型バスが待っている郊外の離れた集合場所に大回りをして向かっていたのだが、途中に神話の猛々しい野獣たちがあるいはつながれあるいはたむろしながら群れているのが見える。私はもう止めて近道してバスに戻ろうと言ったのだが、彼はこのまま行くのだと言う、そこで分かれたが、出発時間になっても彼が戻ってこない。仕方なく、途中まで迎えにバスを出そうとして、道を決めかねている内に、唐突に彼が既に亡くなった級友であったことを思い出した。
思えば、初めての身近な人の死であった。
小学校の卒業式を控えた1月下旬の日曜、数kmほど遠い所にある子供仲間では評判のプラモデル屋に行こうと言うことになり、母が制止するのを振り切ってクラス仲間5~6人で自転車を連ねて店に向かった。店の手前の交差点にさしかかったところ、何故かそこにクラスの先生が立っていて、怖い顔をして「直ぐ帰りなさい」と怒られた、「公平君が交通事故で病院に運ばれた」とだけ言われた。
後から聞いた話では、その店の帰り、その交差点で、自転車を止めたところバランスが崩れてダンプの下に倒れ込み、たまたま運悪く信号が変わってダンプが発車したという、内臓破裂で何時間か後に亡くなったとのことだった。

実は、この級友は、3日を空けずに取っ組み合いの喧嘩をする仲だった。ちょっとしたことで手を出してくる、私もカッとなって応じ、あとは組んずほぐれつボカボカとやりあう。マジ切れしてやりあった割には腕力もそうないから大した怪我もないのだけれど、よく2人並んで廊下に立たされた。今から思うと、よくもまあそれほど喧嘩できたものだなあと、不思議でならない。
そんなに喧嘩ばかりしている割には、お互いの家に遊びに行き来したりして、決して険悪な仲という訳でも無かった。彼は父親が厳しく、そのストレスが私に向けられていたのかもしれない。子供の頃、すぐカッとなる私は格好の喧嘩相手であった。

彼の父親が救世軍で、当時はめずらしくキリスト教式であった。
自宅であったが、大勢の黒い人々が埋め尽くす上を鐘が鳴り響いたこと、父親が号泣していたこと、白い彼の顔を残して菊の花が棺を埋め尽くしていたことなどが断片的に思い出される。
確か私はやりきれなくて、手紙を書いてから空の彼方の彼に届くようそれを焼いたように記憶する。今も自分の心の中に生きていること、君の分までも生きようと思うことなど、当時精一杯の想いを託した。

その後、カッとなって口げんかをすることはあっても、マジ切れして取っ組み合いの喧嘩をすることは無くなった。
果たして君の分まで生きてきたかどうか、自分の分も十分ではないというのが現実か。