立山雄山神社2005/09/03 07:48

立山山頂の雄山神社
立山は古くから信仰の山として栄え、雄山山頂には立派な祠が建っている。そこで、娘共々お祓いを受ける事にした。
360度の広大な山岳の嶺々の中心で祝詞を聞き柏手を打つのは、それだけでも身が清められ、引き締まる気になる。御神酒までふるまわれた。
いただいたお札には、次のような詞が書かれていた。
「・・・一万尺巌頭の神庭に相対するものは神と私だけである・・・私一人の尊い人生を力強く生きよう。今、天地合掌の立山山頂に立って私は固く心に誓った。」
祠の脇の平坦なところは、信心のある人々が願いを書き込んで奉納した丸い石の集積であるという。
立山の放つ魅力/霊気、それに喚起されての信仰の発露、妙に納得した。

小学校卒業の頃、友の死2005/09/06 20:52

今朝、「ああ、彼は死んでいたのだ」と思い出して夢から目が覚めた。
ちょっと冒険をしようという事で、彼と2人で、大型バスが待っている郊外の離れた集合場所に大回りをして向かっていたのだが、途中に神話の猛々しい野獣たちがあるいはつながれあるいはたむろしながら群れているのが見える。私はもう止めて近道してバスに戻ろうと言ったのだが、彼はこのまま行くのだと言う、そこで分かれたが、出発時間になっても彼が戻ってこない。仕方なく、途中まで迎えにバスを出そうとして、道を決めかねている内に、唐突に彼が既に亡くなった級友であったことを思い出した。
思えば、初めての身近な人の死であった。
小学校の卒業式を控えた1月下旬の日曜、数kmほど遠い所にある子供仲間では評判のプラモデル屋に行こうと言うことになり、母が制止するのを振り切ってクラス仲間5~6人で自転車を連ねて店に向かった。店の手前の交差点にさしかかったところ、何故かそこにクラスの先生が立っていて、怖い顔をして「直ぐ帰りなさい」と怒られた、「公平君が交通事故で病院に運ばれた」とだけ言われた。
後から聞いた話では、その店の帰り、その交差点で、自転車を止めたところバランスが崩れてダンプの下に倒れ込み、たまたま運悪く信号が変わってダンプが発車したという、内臓破裂で何時間か後に亡くなったとのことだった。

実は、この級友は、3日を空けずに取っ組み合いの喧嘩をする仲だった。ちょっとしたことで手を出してくる、私もカッとなって応じ、あとは組んずほぐれつボカボカとやりあう。マジ切れしてやりあった割には腕力もそうないから大した怪我もないのだけれど、よく2人並んで廊下に立たされた。今から思うと、よくもまあそれほど喧嘩できたものだなあと、不思議でならない。
そんなに喧嘩ばかりしている割には、お互いの家に遊びに行き来したりして、決して険悪な仲という訳でも無かった。彼は父親が厳しく、そのストレスが私に向けられていたのかもしれない。子供の頃、すぐカッとなる私は格好の喧嘩相手であった。

彼の父親が救世軍で、当時はめずらしくキリスト教式であった。
自宅であったが、大勢の黒い人々が埋め尽くす上を鐘が鳴り響いたこと、父親が号泣していたこと、白い彼の顔を残して菊の花が棺を埋め尽くしていたことなどが断片的に思い出される。
確か私はやりきれなくて、手紙を書いてから空の彼方の彼に届くようそれを焼いたように記憶する。今も自分の心の中に生きていること、君の分までも生きようと思うことなど、当時精一杯の想いを託した。

その後、カッとなって口げんかをすることはあっても、マジ切れして取っ組み合いの喧嘩をすることは無くなった。
果たして君の分まで生きてきたかどうか、自分の分も十分ではないというのが現実か。

富士登山2005/09/10 06:25

夜の富士
先日、御殿場に泊まった。
夜明け前、ふと目が覚めて窓から見ると、富士山が大きく横たわっている。眼前にくっきりとそびえ立つ姿はシルエットだけでも素晴らしく、さらにそれが星々や山頂裾野のあかりで彩られている。
この、夏の夜の富士のあかりを見るたび、小学4年生の時の富士登山を想い出す。祖父が確か喜寿、77歳になるのを記念しての、祖父、父、そして兄と私の一家3代4人の富士登山だった。当時、もちろん今のように5合目あたりまで車道があるはずも無く、2合目吉田口までバスで行き、そこから延々と歩いて登る訳である。夕刻から登り始めて、朝、富士山頂で御来光を仰ごうという計画であった。
大勢が連なって行列で徹夜で登ってゆくのだが、登るにつれ広がってゆく眼下の街の明かりがすばらしく、降るような星々の天蓋と相まって夢幻の世界であった。地面が傾斜しているので地表が大きく傾いて見えるのも面白かった。ただ、普通の運動靴なので、登山道の岩角や冷たさがが直に足裏に伝わってきて我慢できないほど辛かったように思う。結局わたしだけは8合目迄しか登れなかったが、あたりをそして雪渓を茜色に染めてゆく御来光の神々しさは今でも想い出すことができる。
帰りは、須走をズッズッと礫粒をズリながら降りたのだが、高齢の祖父とまだ小学生の孫兄弟の取り合わせが目立ったらしく、登山者達の間でかなり有名になっていたらしい。挨拶は勿論のこと、途中ずいぶん沢山の人から心配されて、雪渓で遊んで兄が怪我をしそうになったのを話しかけられたりした。登山の醍醐味は、その時擦り込まれたのかもしれない。
年齢といい、装備といい、今考えると無謀とも思える登山であったが、夏の夜、間近に富士山を見、登山道や山小屋の明かりを見るたび、鮮烈に想い出す。

人肌の彩2005/09/26 01:06

人物画の部分
人物画を描いていて、改めて感じるのが、人肌の彩である。
よく言われるのに、人肌には黄色系、茶色系、赤色系なるものがあって、化粧などその色の系統に合わせて行うとか。確かにそうである、油絵の具で言えば、ネープルスイエローをベースの黄色系、イエローオーカーの茶色系、ジョンブリアン No.1の赤色系がある。
難しいのが、人肌はその位置や状態によって様々に変わる事である、化粧の教則本のようにパターン分けする訳にはゆかない。例えば指先など、普通赤みがさしている、胸や腹部は黄色であるし、肩や顔の陰りの部分は青い。もちろんちょっとした気分や体調、日に焼けたとかなんとかでいくらでも変わる。そのような色合いを眼で追いながら、青いところはセルリアンブルー、赤みのところはバーミリオン、もちろんホワイトや黒で濃さや明るさを写し取りながら描く。最近はセルリアンブルーとバーミリオンの混色、濁った紫のバリエーションで描いたりもする。人体を描くほどにそのあたりがよく見えてくる、「ああこれほどまでに人肌は豊かな彩を持つものなのか」と思う。
それを単色で塗りつぶし明るさや照り返しだけで表現するのでは、単なる人形となってしまう。それしかできない3D-CGでは、生の肌を表現することはできない、限界である。
写真でも、そのような微妙な色合いを写し撮るには照明や露光などかなりの工夫を要する、素人ではまず無理である。写真を見て描く人物や人体が一目でそれと判ってしまう理由の1つには、そんなものもあるように思う。
人体を描くことで3D-CGの人をつくる参考にしよう、とも考えて始めた人体デッサンであったが、それは無理と思い知った。